現代美術の起源 ーー 二重化された資格の系譜
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よく知られているように、マルセル・デュシャンはレディメイドを「発明」することによって、「現代美術の父」となった。ティエリー・ド・デューヴによれば、それは芸術を実践することと、芸術を判断することの区別を消去し、判断命名行為にまで還元してしまう。何かを芸術であると判断し、それを芸術の名のもとに命名する。芸術を「言語ゲーム」に変えたこと、これが、デュシャンが現代美術の父と言われるゆえんである。 デュシャン:確かにチェスのゲームには、とくに運動の領域できわめて美しいものが存在します。しかし視覚的な領域には、まったくありません。この場合、美をつくり出しているのは、運動の、あるいは身振りの想像力なのです。それは完全に頭の中でのことです。 postalkを操作しているときにカードを見ているようで見ていないような瞬間があるyo3.icon
議論そのものが手の中にあるような・・不思議な感覚に包まれる気がしている
デュシャンにとってチェスとは、反芸術としての制作の放棄ではなく、芸術が目指すべき理想的な「創作行為 Creative act」であり、ぶつかりあう二つの脳が生み出すゲーム空間こそが、芸術によって描かれるべき対象であった。
デュシャンは、「芸術は言語ゲームに過ぎない」ということを主張するために現代美術の父となったのではなく、チェスをプレイすることによって展開する無数のゲーム、決して網膜的な絵画には描かれることのない、脳組織が生み出す下層のゲーム空間こそ、現代美術であると考えたのではなかったか。
チェスにおける「創造行為」とは、二人のチェス・プレイヤーの選択によって掛け合わされ、また絵画のように完成さればそこに存在することができる、というよりも、複雑な局面を精査する急速な思考の中で、幾度もプレイヤー同士によって立ち上げられなければならない流れ=力の場にこそ、その実体がある。そこで「創造されるもの」は、ゲームの最中にプレイヤー同士が指す駒の運動によってのみ発生し、消失している。それが芸術家のモノローグ(独白)とはまったく違う、チェス・プレイヤーのダイアローグ(対話)となっているのである。
デュシャンが「美しい」と言ったゲームは、現在の我々がよく知っている、コンピュータ・ゲームによって実現されているものに限りなく近い。対戦するプレイヤーたちの「ダイアローグ」とはゲームの「インタラクティビティ」であり、彼らによって描かれる無数の「起こりうる運動」はコンピュータ・ゲームの仮想空間にこそ最もわかりやすく現れる。
現在の私たちから見れば、それらは明らかに映画ではなくコンピュータ・ゲームの先祖である、と言うことができる。なぜなら、コンピュータ・ゲームにおけるプレイヤーの視覚は、ゲームの世界に内在する視点(キャラクター視点)と、それを外側からプレイする視点(プレイヤー視点)によって二重化されているからである。